昭和47年6月18日 月次祭



 只今、あぁ、御祈念中に、「典雅の合楽」という言葉を頂きました、「典雅の合楽」と、本当に、え~、そういうおかげをいよいよ頂き、現わして行きたいと、念願いたしております、え~、言うなら、あぁ大きなおかげを頂く、例えば、あの甘木の平田さんなんか、もう「甘木の平田」ではなくて、もう「教団の平田」と、言われるような信者さんですね、ご信者さんで、まあ言うなら、「典雅の平田」と言うても良いわけじゃないでしょうか、ね、お互いが、一つ、え~、高橋さん所のお寿司屋さんで、美穂久、典雅の美穂久と、言うように、そのおかげを頂いて行きたいもんです、ね、「典雅の佐田」「典雅のむつや」だと言われるくらいな、一つおかげを頂きたい。
 それがね、着々としてその、進んで行く、うぅおかげ、勿論その、おぉ、大きなおかげということは、あぁ大きな信心に、対する大きな信心の喜びということだと思う、私が、あぁ、とにかく日本一有り難い私になりたい、これなんですよ、ね、その、おぉ、いよいよ大きな深い偉大な喜びを、頂かしてもろうて、その偉大な喜びに偉大なおかげが伴うてくるというのでなからなければ、ただあぁ、財産家になるといったようなことことでは、もうこれは返って困るんです、この頃からもうあの、おぉ税金の第一っ、えぇ、えぇというと今度はもう、番付が変わってしもうた、皆あの土地成金の人達ばっかりなんですね、ドウゲ使い、使いようじゃ分からん、自分方の屋敷内に飛行場作ろうてんなんてんっちいう、(笑)、おかしな話ですよね、もう(もちつけめが?)またそげなこと言うごとなるです、自分方んとに、屋敷内に飛行場ばいっちょ作ろう、これが私の、あぁそのまあ、あ~、まあ夢だといったような意味のことを、新聞に書いて、あの書いてありましたよ、ね、おかしな話ですよね、だからもうその、典雅の財縛なんていうのじゃつまらんです、ね、本当に大きなおかげというのは、いよいよ大きな喜びを頂かしてもろうて、しかも家内中が、その喜び、を、分かち合えて、ね、その喜びに大きなおかげが伴うてくる、家族中の者が、信心の喜びに、に浸っていけれるような、おかげじゃなからにゃいけんです。
 私は今日は、え~、夕方からしきりに頂いとることがね、あの、昨夜ご飯頂きながら高橋さんとお話したんですけどもね、え~、林家参平と言う、あの落っ、落語家がおりますね、林家参平というのを、林家、林の家と書いちゃる、参平はね、(いくみさ?)じゃなくてから、このお参りの参りが書いちゃる、平という字、平たい、(?)林家参平っち、今日私色々考えてみて、あえ~、のその、おぉ、お話をする中にあの、えぇ、本当にと言いますね、本当にという言葉沢山使うでしょうが、だから私は、林家参平という、おぉその、ことがです、こりゃ、あの心を合わせるということ、ね、林ということは、木を合わせてあるわけです、ね、参平というのは、私はお参りという意味じゃろうと思うた、まあ信心修行だと、平たい、言わば大地にひれふしたような信心が、心を合わせ心を揃えて、家族中の者が出来る、それが本当だということなんです、ね、そういう信心をさせて頂いて、それが段々大きなものになっていく、信心の喜び、それこそ夫婦なら夫婦が手に手を取り合って、有り難いことですねぇと、ね、合楽に御神縁を頂いたということが、本当に有り難い有り難いと、夫婦が話合える、それを子供が聞きよらんはずがない、ね、もうとにかく、夫婦が言う言葉は、他には何にもない、とにかく有り難いですなと言い合えるようなね、ことじゃなかろうかと、今私は、気づかせて頂いた、林家参平とはそんなこちゃな、それが本当だと、ね、そして、只今私が言います、頂きます、いわゆる典雅の合楽を目指さして頂くのでございますから、皆さんもやはり典雅の、ね、佐田さん、典雅の美穂久と、いうようなね、典雅のむつやと、いうものを目指さなければいけませんです、それにゃうんなら、いっちょうんと精進努力してから、あ~その商売なら商売に熱心になろうと(お茶を飲まれる)、というようなことじゃもうたかが知れてるです、それこそ土地成金でばしな、特別の例えば運の良いという人でない限り、出けません、だから運が良うて儲け出たっちいうなのは、先ほどね、自分の屋敷内に飛行場なっどん作ろうかっちいうごたるぐらいなことしか出けんです、ね、儲け出したら、もうそれこそ、高値っ、今朝からの御理解じゃないけれども、ね、高値の肌に手を出すようなことしか出けんです、ね、そして、喜びというようなものは全然ない、ほんに夫婦で一生懸命、え~、苦労しよった時分の方が返って良かったというような結果にさえなってくるわけですから、ね、やはり林家参平がまず、基礎、これが本当なんだ、ここんところを信心の基礎としてです、ね、家族勢を揃えた信心をさして頂いて、家族を、ひっくるめて信心の喜びに浸らせて頂く、その喜びにおかげが伴うてくるというおかげ、そのおかげが大きゅうなれば大きゅうなるほど、もうその有り難いというものはいよいよ高められてくる、いよいよ大きな喜びになっていくというのです、そういうおかげをね頂かにゃいけん。
 今日は午前中に私、ある方のお取次ぎをさせて頂いた、(お茶を飲まれる)、もう一っつも難儀じゃない事をもう涙流して難儀っち言いよる、ね、けれども、日頃信心の稽古が出けとるもんだから、お礼ば申し上げねばならないような事にさそくに、むしろ元気が出るような事に直面しておるのだけれども、それを難儀、いわゆる涙流して難儀だと思うておる、その事をお届けさしてもらいよりましたらね、大きな筆なんです、それにもう先の方へちょこっとばっかり墨をつけてね、もう丁度ペンで書いたような字をこうやって綺~麗に書いとるところを頂いた、ね、こんなに大きな、先のこがんおお、おぉ長い、立派な筆です、それに先の方にちょこっと墨をつけて、そりゃ大きな字書こうと思うたって書けませんよね、先にちょこっとばかりついとる(?)、いわゆる進角なんです、ね、小さい字を書くのは進角と言うでしょ、進角と言うのは心が角いということなんです、心が真四角だということです、几帳面だ、この人は大変几帳である、ところが姑お母さんが、几帳面じゃない、兄弟の人達がどうもろくそなか、そして夫婦とも稼ぎをしよる、返って疲れ帰っ、帰ってくる、もうこの頃は夫婦が、帰って来たっちゃもう疲れきってものも言わん、もう三日間主人とものを言わん、ならこんだん(?)だん、ゆっくり寝ろうばいと思いよると、近所に嫁ってござる姉さん達がぞろぞろ子供を連れてやってこらっしゃる、もう私の立つ瀬はございませんっち泣かっしゃってある、ほぉそげなこつば立つ瀬はなかばいのと私は思うた、ね、もう例えば信心さして頂いて、それこそ本当に修行させて頂こうというような気持ち、御事柄として頂こうという気持ちじゃったら、別にそしてならどげん、悪か人ひとっ、姑お母さんもちったろくそなかばってんとても良か人、姉さん達も悪か人じゃない、主人は非常にやさしい人だとこういう、それでね、ただ(?)稼ぎをしよるとか、一生懸命働いて帰ってくると、疲れきっておる、けん主人もものを、疲れきって帰ってだったものを言わん、それに家ん中はこう散らけちゃる、もうそれでクゥ~としてもう早寝らんのっちいうごとなってくる、そして毎日毎日もみかずそうな生活をさして頂いておる、日曜ぐらいは潤うたゆっくり休ましてもろうて、主人と二人どっか遊びにでん行こうかと思いよると、近所から姉さん達が子供連れでぞろぞろやってきてから、とうとうその、子供さん達やら姉さん達にかっ、その世話やらにかまけてしまって遊びにも行かれんっち、もう私の立つ瀬がない、だいたい非常にその、え~、言い方なんですよ、なるほどこの人が信心したなら大きなおかげが受けられるだろうと思うようなものを持ってる、やはり大きな筆なんですやはり、これがたっぷり、墨をつけて、この筆を大きな、あぁ、紙に向かったらです、どげな大きな字でん書かれようというような、内容を頂いておるわけなんです、もう性格的にね、ですからその墨をつけるということがですたい、ね、これは苦労という、擦るために擦る貯めた、たっぷりと水を、墨をね、つけてそこに始めて大きな字がぼっこんあざらかに書けるようなおかげをです、頂けれる内容を持ちながら、信心がない、考え方が違い、本当なことが分からないので、私の立つ瀬はないとこう言うておる、わいっちあんたこの頃まで来てとってもあんたおかっ、幸せっち言いよったじゃんのっち私が言うた、(笑)、そん時は幸せじゃった、今は幸せじゃなかっち言うわけです、それけんどげんなこと幸せじゃなかかっち言うと、その、楽をする時間がないっち言うわけなんです、ね、それこそ今朝の御理解じゃないけれどもね、ね、氏子十里の坂を九里半登っても安心してはならんぞと、ね、十里の坂を登りきって、向こうへ下りたら、下りたら、それで安心じゃとこうおっしゃる、それで安心じゃというおかげを頂かにゃいけん、これはもう宗教の、これはあらゆる宗教、やっぱそれが言えると思うんですけれども、ね、いわゆる安心立命のおかげを頂くということ、頂上までではダメ、だからもうきつか時にはね、一番きつうして応えん時は、今頂上までもう登っておる時なんですよ、これから楽になるとじゃばってん、後さんこうやって戻ってしまう、ね、言うなら十里の道を九里半登っておるんだけれども、後の所で後左をしてしまうというような、ことではおしい、向こうへ下りたらそれで安心じゃと、ね、神様が安心して下さる、もうあの氏子は大丈夫、ね、だから神様からあの氏子は大丈夫と言われるためにはというて、今日は箇条書き的にずーっとその、神様に安心してもらえる信心を、今日は説き聞かせて頂いたが、その中の一つにです、ね、とにかく、ね、自分から進んで、求めて楽をするようなことだけはせんぞという気になれということ、楽はせんぞという気になればです、神様がもう、あの氏子はです、修行をいとわんということですから、大丈夫と、神様がやや安心して下さるから、そこにややでも安心のおかげを受けられるのだ、ね、そんならもうそら楽はせんぞっちいう気になったらもういよいよ、そのきつかばぁっかりじゃろうというと、そこを通り越えさせて頂くとです、毎日毎日、言うならば百味の飲食、食べ物だけで言うなら、ね、ような百味の飲食的、言うならばおかげが受けられると言うて、私の二・三日の体験を話さしてもらった、一昨日からお客さんが続いておった、ね、それにお客さんに、その人にその人に相応しい、言うならば、あ、さあちょっとその市場まで買うてこい、買い行けというようなこともな~んもない、やっぱりその都度都度におご馳走が、それこそ百味の飲食が、目の前に並べられるほどしのおかげを受けておるということ、信心さしていりゃ、鯛の刺身は食べられん、信心さしてもらえりゃ酒は飲まれんということじゃ決してない、ね、自分から、ね、求めて楽をしようという気を去れよとこういうこと、ね。(お茶を飲まれる)
 いつか、あ~、あれは、十三日会かなんかの時でしたかね、高橋さんが発表しておられました、このまま行くと、まあ今日の言葉を借りるとそれと同じののでしたから、ん、このまま行くと、言うなら典雅の美穂久にもなれそうですという意味のことを話されましたですね、皆さん覚えておられるでしょうか、ね、私は合楽にじっとこげんして、毎朝、朝、朝参りをしてきておればいい、用がある時には合楽に電話をかけて下さい、それでかたっ、片付きよる、そして久留米、ね福岡は勿論あちらへこちらへ、長崎に、今度は北九州の方へと、というようにですね、段々その美穂久がもう九州中に広がって行きよる、ね、これはまぁだあぁた、関東関西にも広がって行くようなおかげになるかも分からん、なるほどこのまま私の信心が続けられて行くならです、典雅の美穂久にもなりかねないおかげが頂けると、信じて信心をさして頂かにゃいけんですお互い、ね、そのためにはです、いつもおかげの方へ吸収されておるのですから、信心がね、吸収されても吸収されても、後の補給の信心というものがなされなければならないということになります。
 先ほど、えぇ、光昭が、当番で前講を勤めておりました、本当にあの、おかげを頂いておる時には、もう、じょっ、話しが成就か下手じゃないですね、その方の一言一言、あぁこう有り難い、最近若先生が、あぁ今東京へ行っております、明日帰ってくるらしいです、それで十日あまり若先生が、手替わりをさしてもらいよるという話しをさして頂いておりました、ね、そうしてこういうことを言ってるんです、素晴らしいことだと思うた、ね、「人間はね、楽をしたい楽をしたいという心がある、だからその楽にはまり込んだら、出ろうにも出られん」と言うとりますね、私はこの言葉は素晴らしい言葉だと思いました、自分の体験なんですみんな、ね、人間はね、もうちょっと楽すっ、楽を、始めますとね、もう、その楽から出られんようになってくる、ね、それが恐いですね、そしてです、こげなこっちゃいかんこげなこっちゃいかんと一時思いよるです、そすと今度はですね、もうそれに、当然化するです、当然というような理屈をつけるです、そして朝参りが出けんとは、もうこりゃ神様も認めてござる、そりゃなるほど認めてござるだろう、その程度には、ということになるです、こげなこっちゃいかんこげなこっちゃ、いかんと言う間はまだ良いです、思うとる間は、ね、けれどもいったんその楽な方へ例えば足を踏み込んだら最後、出にくい、そりゃ自分のそりゃ体験なんです、ね、最近は朝の御祈念にも出てこられなかった、ね、ところが最近は、いわゆる子供達の用やら、外の、若先生が代わりの外の、がいっ、外交の方にもやっとりますもんですから、昼も休まれん、朝はやはり五時の御祈念を勤めなきゃならない、ね、そしてこんなことじゃいけん、こんなことじゃいけんと言いよるところへ、若先生は東京行きされた、もうこの機会、このチャンスに一つ立ち直ろうと思うたという話しを、させて頂いて、ここ十日あまり、そのおかげを頂いておるが、有り難いというものはそういう、例えば昼でも、ちょっと油断をするともう眠気がつくんだと、けれどもそこを辛抱さして頂くその向こうに、喜びのようなものを感じる、喜びとはやはり苦しいことの向こうにしかないということを、話しております、素晴らしいでしょう、もう苦労とはしてない、修行なんだ、いわゆる墨を墨、言わば貯めよるとこです、今一生懸命、それが嬉しいです、ね、どんなに大きな例えば、ね、こんな大きな字の書かれる、筆を、的な性格のものを、頂いておりましても、ね、今申します、私共から言うならもうお礼ば申し上げんならんような事に、私の立つ瀬はないと言うて、情けない涙を流しておるようなことではです、どんなに性格が几帳面な人であっても、大きな筆に少しばかり墨をつけて、それこそペンで書くような字を書いておるようなもんなんです、大きな字の書けるはずがない、ね、そこでそれを御事柄として教えを頂かしてもらい、信心する者は、肉眼をおいて心眼を開けとおっしゃるから心の眼が開けてくると、その事はおかげ、さあ早帰らして頂いてから、お母さんにだけ墨さしちゃならん、早と言うて帰る、生き生きしたものも生まれてくるだろう、もうあの人が帰ってきなさる前に帰っといてから、お化粧の一つもしといて「あなたお帰りなさい」と言い、いう楽しみがあるだろう、日曜日には兄さんやら、その甥やら姪やらがやってくるから、あの人達が喜びなさるように、はぁっこうもしてあげよう、こうもしてあげようというような、生き生きとした心が生まれてくるだろう、それをまた今度日曜にあの人達がこらっしゃるけんでん、く、もう来る前から(笑)、そして私の立つ瀬はないっち言うて涙流しとる、本当に信心のある者とない者の違いはね、こう感ずるでしょうが、してすると、しんっ、性格というものは素晴らしい性格で、大きな筆のような性格を持っておるんだけれども、持っておるからこそ神様が苦労を求め給う、沢山の墨を擦る、貯めさせといてから、大きな筆の大きな字を書かせてやろうという働きを下さるのだけれども、それをそれと気が付かん、本当の事が分からない、それには林家参平という、本当な事が、ね、本当な事が出けんからなんだ、心を揃えて信心せんから、親は一生懸命信心しとるのだから、自分もほんならその親に付いて一生懸命信心さして頂いたら、そのくらいなことは、親にも言う事はいらん、兄弟にも、いやむしろ神様にお礼を申し上げねばならないようなことにです、ね、涙が出るほどの苦労を感じておるということ、ね、お互いがなら大きなおかげを頂きたい、典雅の合楽になりたい、典雅の合楽の言わば信者さんになりたい、典雅の美穂久になりたい、典雅の佐田になりたい、そういう願いを立てたならです、ね、このくらいな修行はもう当り前、とても楽どん自分からしようというようなこって、おかげの頂けるはずはなかと、いうことになってくればです、ね、向こうの、の、向こうに下りたら安心じゃというようなおかげを頂いたら、神様がそれこそいらんと言うてもです、ね、百味の飲食的なおかげはもうお膳立てして待っとってござる、神様は、それを自分でお膳立てしてから、自分でそれを座ろうとするけん、ね、まぁだ美味しか物なかじゃとかといったような不平不足が出けて、それこそ、自分の敷地、ね、飛行場なっとん作ろうっちいうことになってくる、もう馬鹿んごたる、ね、せっかく合楽で信心をさして、それこそ神様が典雅の合楽を願ってござるのだから、私共は典雅の合楽を目指さなきゃならない、そだっ、それには、なら合楽に御神縁を頂いておる一人一人がです、ね、いわゆる典雅の美穂久、典雅の佐田を、典雅のむつやを目指さしてもらうという、ね、そういう願いに燃え立たなければならない、そこにはね、朝の眠いの冷たいの寒いのは言うておれんのだと、ね、私共は人間の弱さというものはです、一度楽な方へ行くとです、もうそれこそね、毎日参りが、月次祭だけになり、月次祭やが十日に一遍になり、一ヶ月一遍になるといったようなことになってきて、しかもそこには適当な、理由をつけて、いや理由じゃない、それにね、もうそれが当り前のように、思う考え方になってしまうのです、お互いがまだ、ほんっ、只今とにかく修行中なのですから、ね、そこんところのおかげを頂いてです、しっかり、ね、信心の、言わば苦労と言うか、信心の修行擦り貯めさして頂いて、何時でもどんな大きな字でも、書けれるような、大きな字の書けれるようなおかげを頂きたいと思います。
 今日は特に典雅ということを頂いた、ね、だから典雅の誰それと、言われるほどしの、まあそげぇんあんたもうせんでんもう、(笑)と言うようなことではなくてね、典雅の誰々、典雅の何々家と言われるほどしのです、おかげの頂けれるその、なら基礎作りだけでも良いから、皆さんがなさっておかなければいけないと思いますね、そすと子供が孫、またその上に大きなおかげを打ち立てて行くという、そんためには、どうしても夫婦が子供が、ね、一家を上げて、林家参平にならせて頂かなければならんということになります、ね、光昭が言うとりますように、そういう例えば辛抱さして頂く向こうに信心の喜びがあるとするならです、やはりどうでもそこを乗り越えさせて頂かなければ、本当の信心は、頂かれん、真の信心はその向こうにある、そこに真のおかげが、展開してくる、真のおかげが受けられる、その真のおかげが頂けれる頃、ね、もう限りなく、ね、典雅の合楽と言われるほどしの、典雅の誰それと言われるような、おかげを頂かしてもらう事が出来ると思うのでございます。
                              どうぞ、よろしゅう。


入力者:誠輝